当然の疑問
“不切正方形一枚折り”という言葉をご存知でしょうか。
一枚の正方形で、切り込みをいれずに折られているものをこう称するのですが、私の作品はすべて“不切正方形一枚折り”です。そのせいなのか、「折り紙は一枚で折らなきゃいけないの?」「はさみを使っちゃいけないの?」てなことをよく聞かれるんですよね。
ユニット折り紙や千羽鶴を引き合いにだすまでもなく、紙を複数枚使った作品や、切り込みを入れた作品は数多く存在します。だから、そんなルールがあるのかというと、当然ないのです。
では、「1枚で折らなきゃいけない」「はさみを使っちゃいけない」なんてルールがないにもかかわらず、私のように“不切正方形一枚折り”にこだわる作家( 実は非常に多い)がいるのはなぜでしょうか。「はさみを使ったほうが楽じゃないの?」「二枚で折った方ほうが簡単じゃないの?」というのは当然の疑問と言えます。
理由1;ペーパークラフトとの差別化
正方形一枚で折るより、紙を複数枚使ったり切り込みを入れたりしたほうが簡単ですし、造形のバリエーションが広がることは間違いありません。でも、そうなると、ペーパークラフトとどう違うのでしょうか。切り込みも1回、2回ならまだしも、それを際限なくやった場合、はたして、それは“折り紙”といえるのでしょうか。そんな疑問が頭をもたげてきます。
“折り紙のアイデンティティ”を考えた場合、ペーパークラフトと区別する基準はやはり必要だと思います。そこで、一番明確な基準として、「正方形一枚で折る!」「切り込みは入れない!」という縛りを自分に課すことにしたわけです。このルールを守っている限りは、「折り紙とペーパークラフトとはこう違うんだ」ということを、こと自分の作品に関しては力強く主張することができます。
理由2;制約への挑戦
「正方形一枚で、切らずに折る」というのは非常にタフな作業です。でも、そこに何ものにもかえがたい“やりがい”を感じるんですよね。やっぱりこれが大きい。
「正方形一枚、はさみ不使用」という非常に制約された条件のなかで、いかに自分の望むものを作り上げるか、そして、そこにいかにオリジナリティを注入するか。難作業であるだけに、満足のいくものができたときの喜びはひとしおです。
仕事をしていても感じることなんですが、自分の能力を際限なく思う存分発揮できる環境なんかそうそうないですよね。意欲も能力もあったとしても、現実には様々な制約やしがらみから、それが思うにまかせない場合が常なんですよね。
制約された環境のなかでクリエイティビティを発揮することの大切さ。そして制約された環境を言い訳にしないこと。これらは折り紙から学んだことといっても過言ではありません(ちとオーバーかな・・・)。
できそうもないところから、できそうもないものを作る。これこそがクリエイティブってことでしょう!
これは個人的な感慨なんですが、折り紙ってのは“枠”を楽しむものだと思うんですよ。だから、創作におけるチャレンジとは、その“枠”を押し広げる作業であって、決して“枠”を逸脱してはいけないのだと思います。
ミステリー作家の東野圭吾氏が、「ミステリーの枠を越えた」という自著の帯の文句を「ミステリーの枠を広げた」に書き直させたという話を聞いたことがあります。わたしも「折り紙の枠を広げた」作品を作りたいものです。
原理主義宣言
とまぁ、以上が大きな理由となるわけですが、あと1つ付け加えるとしたら、とにかく私は折っていることが好きなので、簡単に終わってしまったらつまらない。だから、あえて難しいことに手を出して、あれやこれやとやってるのかもしれません。
ま、それはさておき、つまるところ“不切正方形一枚折り”は折り紙の一般的なルールではなく、少々偏執的なところのある創作家が自らに課した戒律にすぎないんですよ。
だから、そんなことにこだわらない人も多く存在するんです。「目的のために手段を選ばず」という人、つまり作品の完成度(外見上の完成度だけではなく、折りやすさも含む)を最優先する人であれば、二枚以上で折ることや切り込みをいれることをはためらわないでしょう。
しかし、私の場合、完成度ももちろん大切ですが、“やりがい”“試行錯誤”“工夫の楽しみ”“達成感”といったものもまた大切にしたいと思うわけです。そして「“不切正方形一枚折り”でも作品はいくらでも作れる」と自分の実力を妄信してもいるのです。
こんな私は、まさに“不切正方形一枚折り原理主義者”(長い)といえましょう。